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かつての川には防備上の理由や技術上の問題などから、橋を架けられた川のほうが少ない状態でした。ですから街道筋に横たわる大河は難所となっていました。
元和二年 (1616年) に、徳川幕府が停船場を制定しました。停船場に指定された所はは高札がかかげられ、公に渡河することが許される場所でした。これは関東だけで十六カ所あったと伝えられています。
渡しの方法には大きくわけて三つあります。歩行渡し、船渡そして定仮橋です。川の水が浅くて歩いてわたれる程度の場合が歩行渡しで、これは常置された川越人足が旅人の渡河を手伝ってくれました。定仮橋は河川の水が浅くて歩行渡しは可能であるが、冬季など河川が凍るような土地では、一時的に限定して橋をかけることを許された仮橋のことです。船渡しは水が深くて、常時渡船が置かれて、渡船で川越をすることをいいます。いかなる場合においても、夜間の渡河はいっさい禁止でした。
有名な川越場所はなんといっても大井川でしょう。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と川柳にも詠われたように、ここは難所中の難所でした。この川は川幅は広かったのですが、水深はなかったので歩行渡しでした。
具体的な歩行渡しの手段ですが、手引渡し、肩車渡し、蓮台渡し、目こぼし渡しなど様々な方法がありました。手引き渡しは、人足に手を引かれて渡ることで、肩車渡しは文字通り人足に肩車されて渡河します。蓮台は簡単な格子形のものや、人の乗った駕籠をそのままのせれるように板の台に棒を通したものがありました。目こぼし渡しというのは人足を雇えない人が案内なしに渡る手段でした。基本的には違法ですが、幕府もめこぼししていたようでこの名がつきました。ただ時には溺死する人もいたといいます。
どれぐらいの人数が渡河に必要だったかというと、古い記録では徳川家康が渡河したときは三百五十人にのぼったといいます。これは前方に水切り人足といわれる人たちを大量に配置したからだと思いますが、とにかく大変な人数が必要だったことが分かっていただけると思います。蓮台渡しで一台につき四人程度、馬一匹に二,三人程度というのが平時でした。これが増水時とかになると人足の数も増えてきます。渡航賃は人足一人あたりに対して支払いますので、このあたりも馬鹿になりませんでした。
またある一定以上増水した場合は、川留めといって渡河禁止になります。このため川の両岸の宿は何日も川留め客でにぎわうことになったといいます。
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大井川越の様子
「東海道五十三次の内・嶋田宿」 |
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