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宿場には多いところだと数十軒の旅籠が建ち並んでいました。いまとは違い情報の乏しい時代ですから、前もってどこそこに泊まるということはあまり考えられず、当日その場でどこに泊まるか決めていくのが通常でした。当然客引きも多く、競争もはげしくなります。
留め女は、客引き専門に行う女性のことで、派手な化粧をして旅籠の前にたち、客を宿に引き入れることを生業としていました。
飯盛り女とは宿屋の給仕女のことで、宿泊人の食事の世話をする女中との名目で宿屋に抱えられていた者をいいます。旅籠一軒につき二人までというのが原則でした。
後にはいわゆる娼婦のような形になり、旅籠屋のなかには売春宿となんら変わらない状態のものまで現出するに至りますが、基本的には、客は自宿にとまった者に限定されていたこと、そしてあくまで客と飯盛り女の間での自由な直接交渉によるものであったということで、娼婦とはまた違った形態だと言えます。
旅籠のなかには飯盛り女を置かないことを売りにした旅籠も当然ありました。そこでそのような旅籠を区別して「平旅籠」、置いてある旅籠を「飯盛り旅籠」と呼ぶこともありました。
当時の旅において、飯盛り女はやはり旅の楽しみのひとつだったらしく、さまざま文献に当時の様子が描かれています。
宿はその義務として、継立(次の宿まで人や荷物を運ぶこと)のために一定の人数を常にそろえ、幕府等の要求にそなえておかなければなりませんでした。東海道なら馬百匹、人足百人というのが定数でした。これを管理していたのが問屋場でした。ですが、常に定数一杯をそろえていたわけではありません。仕事の少ない日、多い日とありますので常数は少な目にして、足りない場合は助郷村から集めるか、賃金で人足をやとうことが一般に行われるようになりました。こういった雇われ人足のことを雲助といいます。そして雲助たちは、問屋場から仕事が来ない日は、一般の旅人を馬にのせたり、駕籠に乗せたりして賃金をかせいでいました。
しかし一方で、盗賊をはたらいたり、法外な運賃を請求する人が雲助のなかからあらわれるようになったので、世間一般には悪いイメージがつきまとう言葉になってますが、当時の旅において欠かせない存在だったことは間違いありません。
そういや近頃この言葉、問題になってましたね。
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飯盛り女の様子
「東海道五十三次の内・赤坂宿」 |
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