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金谷から一里二十九町、遠江にはいって最初の宿場がここ日坂宿です。古書には「新坂」や「入坂」「西坂」などの名前がでてきますが、江戸時代になって「日坂」となりました。
ここは東海道の難所のひとつと言われた「小夜の中山」の東にあり峠越え重要な宿場であると同時に、人馬継立の常数、百人百疋をそろえるのも難しかったほど東海道でも小さな宿場でした。宿場の規模だけでいえば東海道でも三番目に小さな宿場となります。
改めて言うまでもないことですが伝馬制度には権利と義務があります。
「上のお墨付き」をもらうことで宿場業ができるわけですが、同時に伝馬役を引き受ける義務があります。伝馬役とは今の時代でいう郵便・輸送・交通業務で各宿場には人足百人、馬百匹を公用として必ずおいておかなければなりませんでした。これに加えて島田、金谷などのように川越の負担などをもつ宿場もありますし、一般の旅人のための業務もおこないます。城下町もあれば山間の小さな町、宿場の規模も大小さまざまでした。伝馬役が大きな負担となった宿場も多数あります。
そのため助郷制度が元禄七年(1694年)に規定されます。これは宿場の近隣の村々を助郷村として宿場に協力させることでした。宿場に人が足りないなら周りの村々も協力せよというわけです。助郷村に制定されると助成が多少はあったようですが、結局のところ困窮する宿場の負担を近隣村に転嫁させるだけだったようです。
なお日坂の場合、近隣の佐野郡・城東郡内の四十三ヵ村がこれに該当しました。
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五十三の宿場をこうやって順次書いていってるわけですが、様々な宿場の資料を読んでいくと死罪覚悟で幕府に困窮を訴えたりと当時の苦労が読みとれます。江戸時代の伝馬制度は当時としては隙の無いほど整然と整備されたシステムだと思いますが、それを維持するための負担は間違いなく宿場近隣の人々に課せられていました。その中にあっても、たくさんの楽しみもあったですので、やはり人というにはどんな状況にあっても楽しみと喜びを見いだすものなのでしょう。
昨年日本各地では様々な災害があったわけで、わたしも神戸の震災にあい親類も家を失ったりということを身近で見てますので他人事とは思えないわけですが、人はやはり「強いもの」だということをさまざまな宿場の歴史を読んでいて改めて感じた次第です。はい。
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