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丸子から赤目谷、宇津之谷と越えていくとこの岡部宿へと達します。
「駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人に遭わぬなりけり」と業平の伊勢物語にもよまれた宇津之谷越えは古くは「蔦の細道」と呼ばれていました。唯一の峠越えの手段として、また今川・武田・徳川の勢力の中間点として人馬物資が多く行き交い街道の整備が進みました。ですが江戸期になって東海道が別ルートで開かれると蔦の細道は忘れさられることになります。
また宿駅としての岡部は東海道でも小規模な宿場です。民家(人口)に対する旅籠の割合も最も低かったといいます。つまりは宿場業務よりは往来する旅人を相手にした商売や宿場とは関係のない仕事につくものが多かったことになります。宿に住む者は、男なら日雇稼ぎや薪ごしらえ女なら木綿をおる仕事に従事する者が多く、中には農業をする人もいました。
宿駅になった当初は三十六人、三十六斤の人馬の提供が義務づけられていました。ですが東海道の往来が激しくなり公用荷物や人馬の提供が増えると百人、百斤に変更されることになります。ために人口が少なく宿場業務の弱かった岡部は隣村の内谷村を加宿として人馬継立の業務を分担するようになり、問屋も岡部と内谷で交代で勤めました。それでも大名の大規模な行列があったときなどは夜具の調達にも苦労したといわれています。
今の岡部は玉露の産地として有名ですが、現存する旅籠を中心とし歴史の保存にもつとめた町作りを進めています。
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