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原宿は片側が沼津宿から続く砂丘の松原で、もう片方が愛鷹山麓と富士山の裾野から広がる浮島原と呼ばれた浅い沼地でした。ですので原宿は両側を海と沼地にはさまれた細長い場所にありました。必然的に、宿のつくりは街道にそって片側に人家が並ぶ形になりました。旅籠が二十五軒しかないことからも分かるように、東海道五十三次のなかでも比較的小さな宿場でした。
また広重の「東海道五十三次の内・原宿」の背後に描かれている山は、当然富士山と愛鷹山です。その手前に田圃が広がっていますが、ここは沼地だったので、多くの新田が干拓されました。現代の地図をみても、愛鷹山までの間は広大田圃が広がっており、地名にも何々新田という場所が多く残っていますので、その意味でかつての風景をとどめているといえるかもしれません。
なお東海道新幹線は愛鷹山の裾野のほう、原宿よりやや北側を通っていますが、富士川をわたり富士山が左手前方(東京行き)広がりみえる場所はちょうどこの辺りになります。
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